言語の可視化をめぐって:こころと言葉の交響
- 講師:石川 慎一郎(神戸大学)
講演概要
先日,あるサイト上で自分自身が「第2言語習得論の研究者」と紹介されていることを知った。自分ではそのように考えたことはただの一度もなかったので,ずいぶん驚いたのだが,一般に,研究者には何らかのラベルが張られることが多い。「**の研究者」「**の紹介者」「**の大家」といったものである。では,私なら自分自身にどんなラベルを張るか考えてみるのだがこれが意外に難しい。
私の卒業論文のテーマは「ディラン=トマス詩論:初期詩群におけるヴィジョン・メイキングの過程の一考察」であった。先般,ノーベル文学賞を受賞したボブ=ディランの名前の由来にもなったトマスの詩は,初めて読むと,何のことを言っているのかまったくわからない。しかし,英語があまり読めない東洋の若造でも,トマスの言葉が暴力的なエネルギーを持っていることだけは即時に理解できた。
トマスの詩に限らず,言葉には,意味がわからないのにこころだけは確実に伝わる,といったことがよく起こる。そんな不思議なことがなぜ起こるのか,これが私の抱いた最初の疑問だった。あるテクストについての「なぜ」を説明するには,そのテクストの外の言葉や枠組みを使う必要がある。学生時代の私は,主に2つの枠組みで問題を考えるようになった。1つは当時の哲学界を風靡していたフランス発のディコンストラクション理論で,もう1つは言語学,とくに文体論や機能文法などの枠組みである。ディコンストラクションでは,テクストを自立的にとらえ,テクストの意図をテクスト自身が裏切る(脱構築する)メカニズムに着目する。文体論では言語がある特定の効果を生じる仕組みの解明を目指す。文学の先生と哲学の先生と言語学の先生に同時に師事するという,今ではあまり見られない融通無碍な学生生活を送りながら,目に見えない言葉の機能を可視化する,というテーマにずっと向き合ってきた。その後,研究者になり,心理言語学の各種の実験手法や,脳機能測定,また,コーパス分析など,「なぜ」に接近する道具立てはいろいろ変わってきたが,問いそのものは今も昔も変わらない。それは私にとっていつまでも提出できない「宿題」のようなものである。
目をつぶっていると神様が見えた/うす目をあいたら神様は見えなくなった/はっきりと目をあいて神様は見えるか見えないか/それが宿題(谷川俊太郎「神様」『これが私の優しさです』所収)